ルームメイト 8一週間後、私は退院した。貴史が車で迎えに来てくれた。車の中で、私たちは由佳さんのことも、恵美さんのことも話題にしなかった。もちろんナナコやハナコ、それに母のことも。 昔、あんなにおしゃべりでおたがいを慰めあっていた私たちは、今はそのおしゃべりがおたがいを傷つけるもとにしかならないことを知っていた。車の中は、場違いに明るいJ―POPが薄っぺらく響いていた。 部屋は思っていたよりも片づいていた。私の血が染みついたラグは処分されていた。 「ありがとう。片づけておいてくれたのね」 「いや、もともと俺のせいだし」 貴史は、居間のテーブルの横に、入院用品の入った紙袋を置いた。そして、ソファに腰掛けた。お茶でも入れようとキッチンに行きかけた私を軽く制し、向かい側に座るように促した。そこは、あの日由佳さんが座った場所だ。 「恵美さんは……」 「病院で……」 私たちは、同時に口を開いた。そして、苦笑いをして言葉を引っこめた。 「いいわよ。先に言って」 そう言うと、貴史の表情からは笑みが消え、真剣な表情になった。 「病院で、心療内科の先生にも診てもらったのか?」 「まだそんなこと言ってるの」 やはりお茶を淹れよう。私は立ち上がった。とても喉が乾いていた。 「俺は心配しているんだぞ!」 珍しく怒っている貴史の声が、キッチンまで追いかけてきた。 「私だって心配しているのよ。あんた、いつか本当に刺し殺されるわよ。どうせなら親父みたいに要領よくやらなきゃ」 私は緑茶の入った湯呑みを二つ、トレイに載せて居間に戻った。貴史の顔を見ないようにして、それぞれの前に湯呑みを置いた。 「それより、恵美さんとは本当に別れるの?」 「ああ。まあ、仕方ないさ」 病院で恵美さんに言われた言葉は、貴史には伝えていなかった。もしも貴史がそのことを知っていたら、愛里ちゃんのために恵美さんとやり直す道を選んだだろうか。それとも、やはり「仕方ない」の一言で片づけてしまうのだろうか。 貴史はお茶をすすり、顔をしかめた。猫舌なのは、昔から変わらない。思わず笑いがこぼれてしまう。 「なんか、冷たい飲み物にするね」 キッチンへ行き、冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを出そうとしていると、突然背後からきつく抱きしめられた。 「……あのとき、果南子が死ぬかもと思ったら、ものすごく怖かった」 今にも泣き出しそうなかすれ声で、貴史が言った。 「昔、果南子が手首を切ったときよりも、ずっと、ずっと」 貴史の腕の力がゆるんだので、私は貴史のほうに向き直った。貴史は、今度は私を正面から抱きしめると唇を重ね、力強く私の舌を吸った。 愛しい。世界中でただ一人、貴史だけが愛しい。大きな温かい手で、私をしっかりと抱きしめてくれる。永遠に、この腕に抱かれていたいのに。 でも、それは、望むことさえ許されないのだ。 私は、前に貴史とキスしたときのことも思い出していた。冴木と別れ、貴史も彩子と別れた頃、私たちは久しぶりに一緒のベッドで寝た。朝まで、何度もキスをした。飽きることもなかった。冴木とでは違和感のあったことが、貴史とならぴったりと上手くいった。貴史もそうだったのだろうと思う。私たちは、おたがいのために存在する二人だった。その夜、私たちは仮の子宮で眠る胎児ではなく、成長した男と女だった。 貴史と一緒に眠ったのは、それっきりだった。私たちは怖くなってしまったのだ。最後の一線を越えてしまうことが、あまりにも簡単である事実に。 私は貴史を愛している。貴史も私を愛している。それは間違いのないことなのに、どこかでどうしようもなく私たちは間違っている。 私から目を背けるように、貴史はいろいろな女とつきあった。そして、私にはハナコが現れた。 頬が生温かく濡れていた。貴史が、泣いていた。子供の頃のように。私から唇を離すと、貴史はその場に力なく跪いた。私は貴史の頭を抱きかかえた。貴史の髪からは、春のお日さまではなく、煙草と整髪剤の匂いがした。 私は、私たちを生んだ両親を憎んだ。私も貴史も別々の親から生まれ、もっとまともな家庭で育ちたかった。そして、まったくの他人として出会いたかった。――決してかなうことのない夢だったけれど。 いつの間にか、私も泣いていた。私の涙が、貴史の髪の毛を静かに濡らしていた。私たちは抱きあったまま、静かに泣いていた。 やがて、貴史が突然ともいえる勢いで、私の体から身を離した。 「また、来るから」 そう言うと、私の顔を見ようともせず、キッチンから出ていった。そして、玄関のドアが閉められる音が、静かな部屋の中に響いた。 私は、そのままキッチンの床にぺたりと座りこんでいた。 待っていたのだ、ナナコが現れるのを。ナナコが現れ、私を慰め、そして私を許してくれるのを。しかし、ナナコはもちろん、ハナコさえ現れはしなかった。私は冷蔵庫につかまりながら、ゆっくりと立ち上がって、キッチンを出た。そして、玄関横のナナコの部屋の前まで行ってみた。静まり返っていて、人の気配は感じられなかった。意を決めて、私はナナコの部屋をノックした。 返事はなかった。 ノブをまわして、中に入った。中は、がらんとしていた。家具ひとつなく、窓枠にはうっすらと埃が積もっている。人のいた痕跡など、皆無だった。 また、新たな涙が出た。 雑巾を持ってくると、埃を拭った。ナナコのいないことは覚悟していたけれど、無人の痕跡には耐えられない。窓を開けて掃除機をかけ、枯れかけたグリーンや、椅子や、CDプレイヤーなどを置いた。それで、どうにか私の部屋になった。 もう、ナナコやハナコに甘えることもできないのだ。そう思うだけで、あとからあとから涙はあふれた。私は乱暴に手の甲で涙を拭った。泣いたって、喚いたって、もう誰もいない。 貴史とも、当分会えないだろう。貴史に新しい彼女ができて、私にも誰かつきあう男ができて、おたがいが安全だと思えるようになるまでは。そんな日がいつ来るのか、本当にそんな日が訪れるのか、自信もないというのに。それまで、私はずっとひとりなのだ。 キッチンへ戻り、戸棚の中から残っていたウィスキーの瓶を取り出し、震える手でグラスと氷を用意した。北嶋と別れて以来、私の酒量は飛躍的に増えている。身体を壊したってかまわない。いや、むしろこんな身体なんて壊れてしまえばいい。 手首を切ることは、もうしない。貴史を悲しませてしまうから。でもお酒を飲むだけなら、貴史にも、私の心にもごまかしが効く。すでに頭痛は慢性のものになっている。すさんだ生活が続けば、この忌まわしい血の流れた身体と邪まな想いに囚われた心が、望みどおり消えてくれる日も遠くはないだろう。 だが、ウィスキーを注ごうとした私の手を、大きな温かい手が止めた。 「やめとけよ。飲みすぎは体に悪いぜ」 優しい、おだやかな声だった。振り向くと、見知らぬ、だけどどこか懐かしい雰囲気の若い男がいた。私は驚かなかった。体も感情も麻痺してしまったようだった。 「……じゃあ、これからは、あんたが私のそばにいてくれるの?」 男はニヤリと笑った。 「カナオとかハナオみたいな、ダサい名前は勘弁してくれよ」 「……じゃあ、タケシは?」 男は右手の親指を立てて、にっこりと笑った。そして、私の肩を軽くたたくと、ナナコのいた部屋に入っていった。 私は、キッチンに根が生えたように立ちつくしていた。私は嘘つきだった。私の心は、死なんか望んではいなかった。私は生きたかった。愛する人と、一緒に。 私はきっと、タケシを愛することができるだろう。彼は、ナナコであり、ハナコでもあるのだから。どうせ一番愛している人とは、永遠に一緒になるわけにはいかないのだから、寂しさを穴埋めしてくれる相手が妄想の産物であろうが生身の人間であろうが、かまわない。いや、むしろ誰かを悲しませたり傷つけたりするぐらいなら、「架空の人物」のほうが、ずっと都合がいい。たとえ現実から逃げていると言われても。 そのうち、私の心が辻褄合わせの物語を創りだし、彼が「架空の人物」であることも忘れさせてくれるだろう。例えば、飲み屋で意気投合した私たちは一緒に暮らすことにした、とでもいうように。 そして、ナナコのことも、ナナコにまつわる出来事も忘れてしまうのだ。ハナコのことや自殺未遂のことを忘れていたように。それでいい。忘れることで、生きていくことが楽になるのなら。 とにかく、私はもう独りじゃないのだ。 私はウィスキーを戸棚に戻し、紅茶を二人分淹れた。トレイに載せると、今はもうタケシのものとなった部屋のドアをノックした。 「どうぞ」 彼のおだやかな声が聞こえた。彼はいる。間違いなくここに。 私は高鳴る胸を抑えつつ、ドアを開けた。 (了) ジャンル別一覧
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